心の鏡を磨く「人間本来仏」といわれます。
人間の心というものは
「清浄無垢」なものであります。
生まれながらにして人間は、誰しもが、この清い
「良心」を持っているのです。
この「良心」を見失うことなく一層高めていく
努力が「心の鏡を磨く」ということです。
鏡は御承知のように物の姿を投映します。
しかし、物の姿が映ったからといって
鏡そのものの目方が増えるわけではありませんし、
姿が消えても鏡自体の目方が軽くはなりません。
また、鏡は美しい物を映したとしても、
逆に汚れたものを映した場合でも、
ともに鏡そのものは
決して美しくも汚れたりも致しません。
鏡は、このように周囲のものに影響されることなく
常に不動の自身を堅持しております。
人の心は鏡と同様にあらゆるものを映します。
ただ鏡と異なる点は、
その投映物によって左右され勝ちになることです。
美しいものに同化されるのはよいとしても、
悪いもの汚れたものが映った場合、
それに迷わされ、
ひきずられてしまう結果になります。
このように人の心というものは、
常に変転し易いものです。
この変転し易い心を何物にも左右されぬ
不動の心にしていく努力が、
即ち「心の鏡を磨く」ということなのです。
道場で毎朝行っている瞑想の目的主旨は、
一人静かに心を落ち着けて瞑想することによって
過去に行ってきた己れの姿を見きわめ、
その善悪を判断し心の鏡を、
常に磨ぎすまされた不動の状態に置き、
その上で今日一日の行動の指針を
決めるところにあるのです。
要するに瞑想とは「良心に基づく不動心を養う」
ためのものです。
常に曇りのない良心を心掛けていくことが
「心を磨く」修行につながります。
磨かれた心で物をみれば不平不満は
決しておこりません。
己れの心の鏡が曇っているからこそ
物事が曲がめられて見えるのです。
心の持ち方一つでその人に
喜怒哀楽をもたらすのです。
児玉語録
和歌山断酒道場 前道場長
児玉正孝先生訓話集
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