あとがき・児玉語録
- 2018/07/03
- 20:39

十年前にアル中は治らないものとして、家族から社会から谷底に蹴おとされていた私が妻の唯一人の愛情の支えによって、どうやら生きのびて、谷間を這いのぼって現在に至りました。この体験を生かして、世のアル中と共々に修行している場が「和歌山断酒道場」です。では何故にアル中には修行が必要なのかーアル中は狂人ではありませんが、精神異常者であるが故にアル中の治療も・・・・・。人間生れながらにして持っている「思いやり...
照顧脚下
- 2018/07/02
- 18:55

禅家でよく使われる言葉の一つで、足許に目を注げの意であることから、私は道場生に、常に、履物を整えよ、心を調えよ・・・の注告の言葉として使っていますが、盗人でも玄関の履物がよく揃えてある家には入らぬと申しますように、履物が整えられてあることは、その家人の心が整えられておる証拠で全てが整理されているが故だと思います。足下といえば、自分の足許は足さぐりでも分る程に、自分にはよく知っているが為に、アル中は...
道理を諦観せよ
- 2018/07/01
- 16:22

あきらめるといっても、世の一般の人々が申します、自分は不遇だ、不幸だと愚痴る消極的な、絶望的なものではないのです。「明らかに因果の道理を諦観せよ」ということなのです。昔の諺に「損して得とれ」という言葉があります。損得とは一枚の紙の表裏のようなものであって、得にはいつも損の裏打ちがあり、逆に損には常に得の裏打ちがあるのです。 だから損(アル中という他の人にない重荷を一つ背負っている)を承知して、これ...
妥協は敗負
- 2018/06/30
- 21:02

戦いの場において安易なる妥協は、敗負を意味します。人生の戦いにおいても同じことです。己れの良心に照して有害なるものは、すべて敵として排除すべきで安易な妥協は、決してすべきでありません。アル中にとって、最大の敵は酒です。従って酒とは絶対に妥協すべきでなく、妥協するところには、人生の敗負があることを十分ご承知願いたいと思います。 私の体験にこんなことがあります。終戦後広島の故郷へ復員した私は、私の家の...
酒に囚われぬ心
- 2018/06/29
- 13:21

禁酒、断酒と、それのみに囚われることは、ちょうど柱時計が止ったからといって、振り子を一生懸命に磨いたり、修理するに似ていると思うのです。アル中・・・とは神から人間のみに与えられた唯一つの万物の霊長たる特権、すなわち使命と可能性を放棄して動物界に脱落した、ただの人の哀れな姿だと私は考えております。アル中の日常生活をよく観察しておれば、お分りのように、動物と同じように本能につながることしか、やっており...
改造でなく革命である
- 2018/06/28
- 19:18

アル中からの脱出は、人間人格の改造でなく、更に一歩つき込んだ革命でなくてはなりません。改造であれば今迄の自分を土台にして、善悪を入れ替えるだけで済みましようが、人間復活を目指す以上は、こんな生易しいことでは到底おっつきません。今迄の自分を一度解体して新しい自分を作り出す覚悟が必要なのです。これが革命です。酒だけのことではありません。断酒だけのことであれば一生入院しておればよいのです、社会復帰する以...
素心にかえれ
- 2018/06/27
- 19:53

素直に聞き、素直に受け、素直に行えーこれが素心にかえる三条件です、また、素心とは自我の心を捨て去った、人間が本来もっている良心その儘の心のことでもあります。幼児というものは実に無邪気で可愛らしく、誰からでも愛されます。それは幼児は自我、自分の欲に囚われる心をもっていないからなのです。それが成長するとともに人間の欲もまた心の中に食い込んでくるわけです。しかし、人間の心は、もともと鏡のようなもので不生...
心をかえる
- 2018/06/26
- 16:18

ハエという虫は払っても直ぐ寄りつくものです。ハエをなくするには一番身近な場所から順次に清掃、清潔の場を広げていけば、払う必要もなく、楽々と昼寝が出来るようになります。酒も同様、酒が飲みたい、欲しいと思う自分の心を変えなければ、酒から脱出することは不可能かと思います。私の家は広島にあり、家では妻が「酒害相談所」という大きな看板を掲げて、酒類の小売業を営んでおります。私も用件で広島へ帰った折などは、店...
反省・感謝・報恩
- 2018/06/25
- 19:37

口先だけの反省でなく本当に裸の自分を視つめた場合、今日こうして生きておれるのは一体、誰のおかげであるか、普通の人間ならばよく解る筈です。 ここに気がつけば感謝の念が胸底から、泉の湧くごとく突きあげてくるものです。そうなればとにかく何とかしてこれまでの報いをしなくてはならない、という感情にかけられ、居ても立ってもいられなくならなければ嘘だと思います。ここで始めて本当の反省がなされ、人間らしい感謝の気...
和敬清寂
- 2018/06/24
- 15:50

「和・敬・清・寂」ー 私の好きな言葉の一つです。この言葉は、茶道の祖、珠光さんが、時の将軍足利義満に「茶道の極意とはー」と問われたとき、即座に和敬清寂と答えられた。 それがこの言葉なのです。意味を申しますと「すべての根源は”和”にある。和するためには、己れを謙虚にし人を敬う心がなくてはならぬ、即ちこれが”敬”である。そして人を敬う心の源は己れを慎み清冽に身を処さねばならぬ、即ちこれが”清”である。更にま...
愚痴について
- 2018/06/23
- 21:34

愚痴とは、愚かなる心の病である、といいます。愚(おろか)で痴(たわけ・ほうけ)た状態のことです。小人ほど愚痴をこぼすことが多いようです。自我に執着しすぎるところから愚痴が出ます。愚痴には必ずといってよいほど過去が過大評価されており、裏面は自我のかたまりといったようなものです。しかも、自己を正当化しようとする気持ちが多分に含まれております。このように愚痴ほど見苦しく、愚かしいものはありません。失敗が...
小我を捨て己れを知る
- 2018/06/23
- 13:06

小我ーこれは自我、我欲をいいます。小我にはしる者は、終局的には、小我によって滅びるものです。常に申しているように、生きるということは、肉体的、精神的に自己を存続せしめることでありますが、自己のみでは生きていけないのです。他との協調の上に立って始めて自己の存在があるのです。従いまして他との協調をはかることが、自己を存続せしめるための絶対的条件にあげられるわけです。他との協調をはかるためには、どうある...
孤独の自覚
- 2018/06/22
- 19:30

人間は孤独でありますが、総体的な孤独では生きていけません。人間社会が共存共栄の集団生活を営んでいる以上、何らかの形で他人の影響を受けざるを得ないのであります。相互援助によって生きているわけです。しかし、これらは物質的な表面上の問題であって、その内面すなわち精神面においては、人間の死が孤独であるのと同様に、これも孤独なのです。人間が孤独であればあるほど社会の互助あるいは対人関係といったものが、より以...
信仰について
- 2018/06/21
- 19:56

信仰は必ずしも宗教(註1)とは限りません。もちろん、極めて類似したものではありますが、信仰は宗教より自由なものだと思います。信仰も宗教も、人それぞれの心の中にあるものであり、他より強制されたり他に強いたりするものでないことは申すまでもありません。一心こめて祈るところに信仰があり、宗教が生まれるのです。また、宗教には一つの戒律がありますが、信仰はその点、あくまでも自由で、もし戒律があるとすればそれは...
日々の覚悟
- 2018/06/20
- 20:07

生存競争の激化とともに世相も大きく変って参りました。人間の考え方もまた大きな変化をみせております。これに伴って必然的に人生に対する倫理的観念も変化し、古い(明治から終戦までの)倫理は通用しなくなった、と一部ではいわれております。いや、むしろ見方によれば時代の風潮に押し流されているようにさえ感じられている昨今です。しかし、私は人間の根本倫理は、どんな時代になっても常に不変不動のものだと考えております...
生きた断酒 死んだ断酒
- 2018/06/20
- 13:55

「断酒道とは人間復活とみつけたり」これは私の信念であります。何故、断酒するのか、しなければならないのか、これを真剣に考えていきますと行きつくところは「人間復活」以外になく、断酒の目的も当然この点になくてはならないと考えているわけです。人間復活を目標とする断酒でありますので、私は「断酒道」すなわち「道」と名付けているわけであります。勿論、断酒の方法は、いろいろありましょうが、ただ単に酒をやめることだ...
謙虚であること
- 2018/06/19
- 20:43

「謙虚であること」は、最も尊い人生哲学だといわれております。すべての人の心の中に、この謙虚の精神が培かわれたならば現代は、更に暮しよい楽しい世の中になるだろうと思われます。モンテーニュは「すべての徳は謙虚より生れ、すべての罪は自我より生れる」といっております。これは人類の平和と幸福の、そしてまた民主主義の基本に通ずるものでもあるのです。謙虚が百徳の基であるこということは、モンテーニュの言葉にまつま...
反省について
- 2018/06/18
- 20:23

一口に反省と申しますのは過去の己れの言動をふり返り、正邪の切り目をつけ、今後の指針を決定することであります。一般に口先だけで「反省した、反省した、二度とこんなことは繰り返さない」といっておりますのは反省という言葉を借りて己れを装っているに過ぎないと思います。反省とは、もっともっと厳粛なるものでなくてはなりません。要するに自己の裸の姿を客観的に冷静な目で視つめ、きびしく自己批判するものでなくては意味...
竹はふしから芽を出す
- 2018/06/17
- 20:23

竹は成長とともに節をつくります。風雪に耐えて折れず、曲らず真すぐ伸びるためにも、この節は竹にとって重要なものですし、節が固く多いものほどよい竹とされております。人生もまた同じことではないかと思います。真すぐに折れず、曲からず竹のように人生街道を歩んでいくためには、 やはり節がいるのではないでしようか。では人生の節とはどういうものなのか。それは人生に区切りをつけるということです。一定時期毎に過去の体...
甘柿と渋柿
- 2018/06/16
- 20:45

一般に渋柿はうとまれ甘柿は歓迎されます。しかし、甘柿は甘柿のままでしかありませんが、渋柿は月日とともに自己の力でシブを抜き、やがては甘柿にはない一種独特の甘みを出すに至ります。吊柿が人に珍重されるのも、普通の甘柿からは得られない味を持っているからです。人間にも甘柿と渋柿があると思われます。現在は逆境にあって渋柿のごとき存在であっても、努力と精進によって己れを磨き高尚な人格を形成した暁には、一般の人...
修行と修養
- 2018/06/15
- 10:38

修行と修養をごっちゃにされている人があります。しかし、私はこの両者は全く別の意味のものだと考えております。即ち修養とは「師についたり、書物によって自己を高める」ことであり、修行とは「己れの体で知ることによって己れを高める」ことであると思うのです。従いまして当道場では"修養"の言葉は一切用いず、日常の事柄一切が"修行"であると申しております。何ずれが良いか、悪いかなどは抜きにして"修行"が私の方針な...
人間一人で生きられぬ
- 2018/06/14
- 10:13

よく「俺は己れの力で生きているのだ、他人様の世話は受けぬ」など広言を吐く人があります。しかし、これはとんでもない間違いなのです。よく考えてみて下さい。自然、隣人、社会の恩恵があればこそ生きていけるのです。産業がいかに進んでも太陽、空気、水がなくては忽ち人類は滅亡してしまいます。また、どんな英雄偉人であっても、生まれ落ちで直ぐに自己の力で成長した例はありません。肉親、隣人の援助があったればこそ一人前...
一隅を照らす
- 2018/06/13
- 20:04

人間は神仏でないのですから全知全能ではありません。短所もあり長所もあるのが人間なのです。また、欠点ばかりで何一つ良い所がない、逆に一分の欠点もないなどという人間もまた在り得ません。そこで人間として大切なことは、短所を補い長所を延ばしていく努力です。この努力こそが人間に与えられた使命の一つといえます。これが人間修行であり、この努力を弛まず怠らず一生涯続けていく人が最も尊い人ではないかと思います。確か...
一期一会
- 2018/06/12
- 19:31

盛者必滅会者定離とい言葉がありますが、この「一期一会」という言葉もこれによく似た意味のもので、茶道にある言葉です。人間の数は、いまは何万億とありますが全宇宙の生物、馬牛犬の動物から一木一草の植物さらにまた虫や昆虫など総ての生物の数からみると人間の数は実に微々たるものです。釈尊は全宇宙からみた人間の数は「爪上の砂の数」でしかないと教え人命の尊さ、人間使命の重大さを説いておられます。この選ばれて人間と...
人間に絶対はない
- 2018/06/11
- 20:13

人間に絶対はない人間社会に絶対というものはありません「一寸先は闇」のたとえではありませんが、今現在があってもその先が全く不明である。人間の生命を考えてみるとき絶対というものがあるとすれば、それは今いきているその時だけが絶対だとしかいえません。よく人は「絶対に二度とこんなことはしない・・・」とか「今後は絶対に二度と酒を口にしない・・・」とか申しますが、こういったことは「絶対」という言葉の意味を余りに...
心の鏡を磨く
- 2018/06/10
- 21:13

心の鏡を磨く「人間本来仏」といわれます。人間の心というものは「清浄無垢」なものであります。生まれながらにして人間は、誰しもが、この清い「良心」を持っているのです。この「良心」を見失うことなく一層高めていく努力が「心の鏡を磨く」ということです。鏡は御承知のように物の姿を投映します。しかし、物の姿が映ったからといって鏡そのものの目方が増えるわけではありませんし、姿が消えても鏡自体の目方が軽くはなりませ...