修行と修養
- 2018/06/15
- 10:38

修行と修養をごっちゃに
されている人があります。
しかし、私はこの両者は全く別の
意味のものだと考えております。
即ち修養とは
「師についたり、書物によって自己を高める」
ことであり、
修行とは
「己れの体で知ることによって己れを高める」
ことであると思うのです。
従いまして当道場では"修養"の言葉は
一切用いず、日常の事柄一切が"修行"
であると申しております。
何ずれが良いか、悪いかなどは抜きにして
"修行"が私の方針なのです。
水の冷さは水の中へ手を入れなければ
知ることができません。
水泳の本を読んで畳の上で如何に
練習しても、それは理屈だけを
知るのみのことで実際には泳げないように、
頭で知っても体がいうことを聞かなくては
何の役にも立ちません。
体で知ってこそ
実際的な効果が得られるのです。
私が修養よりも修行を
優先させているのも理論よりも
実行が大切だと思うからです。
体による修行によって実行力をつくる、
実行力がなくては、百の理屈も無に等しく、
身近かな何でもないようなことでも
一つの実行は、
人間としての価値を生むことになります。
酒を何故やめねばならぬのかを
頭で考えるよりも、まず酒を断ってみて
そこから生れる現象を体で知る、
そうすれば己ずと酒が自分にどんな
弊害をもたらしてきたかを
体験することが出来るわけです。
とかく物事を理屈や理論で
批評、非難し勝ちな私達にとっては、
体で知っていく、実行していくということが
何よりも大切でないかと思うのです。
人間は体験によって生き、
体験によって栄えるといわれます。
頭での知識でなく、体で知り
これを知恵として身につけていく、
これでなくては実際の物事には
役立たぬと考えます。
修行とは自分の手で、足で己れを
磨いていくことです。他から
教えられるものではないのです。
児玉語録
和歌山断酒道場 前道場長
児玉正孝先生訓話集
     



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