甘柿と渋柿
- 2018/06/16
- 20:45

一般に渋柿はうとまれ
甘柿は歓迎されます。しかし、
甘柿は甘柿のままでしかありませんが、
渋柿は月日とともに自己の力で
シブを抜き、やがては甘柿にはない
一種独特の甘みを出すに至ります。
吊柿が人に珍重されるのも、
普通の甘柿からは得られない味を
持っているからです。
人間にも甘柿と渋柿があると思われます。
現在は逆境にあって渋柿のごとき存在で
あっても、努力と精進によって己れを
磨き高尚な人格を形成した暁には、
一般の人にはない奥深い風格を
身につけることができ人々から
信頼される人間になり得るわけです。
人間は誰しもが
何らかのシブは持っているものです。
大切なことは、これを甘味に替える
努力なのです。
渋柿が自ずからの力でシブを抜き
他にない味を作り出すように、
人間も忍耐と努力によって、やがては
逆境から抜け出て世に役立つ人になる。
この努力の課程が尊いのです。
如何に精進しても一挙にシブを
抜き出すことは不可能なことです。
長い間の不断の努力、これが人間を
序々に高めていくのです。
この努力如何によって人間の価値が
決るのだともいえます。
努力の期間が長ければ長いほど
その人格は一層高められていくのです。
「みるもよし、みざるもまたよし、
吾は咲くなり」
この精神こそが尊いのです。
人間の修業は、一生涯つづくものであり
評価を求めるものではありません。
努力の積み重ねが自然と光を放って
くるのです。
この光こそ本物でメッキの光ではありません。
吊柿は腐ることなく、
その味を持ち続けるように、
人間も真の修行から得た人格は、
失うことなく何時までも
イブシ銀のような奥深い光を
失うことがありません。
この人生で誰が幸せで、誰が不幸か、
又何が成功で何が失敗か、
最後には神仏のみが定めることでしょうが、
私共において、それを決めるものは、
結局は「信念と努力」のほかにないでしょう。
一日一日が修行の連続であるというのも、
この意味からです。
一時の誤魔化しでなく、人の後になっても
誠実に一歩一歩人生を登りつめていく
根気と忍耐を忘れては、
メッキの光しか得られないのです。
児玉語録
和歌山断酒道場 前道場長
児玉正孝先生訓話集
     



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