和敬清寂
- 2018/06/24
- 15:50

「和・敬・清・寂」ー 私の好きな言葉の一つです。
この言葉は、茶道の祖、珠光さんが、
時の将軍足利義満に
「茶道の極意とはー」と問われたとき、
即座に和敬清寂と答えられた。
それがこの言葉なのです。
意味を申しますと
「すべての根源は”和”にある。和するためには、
己れを謙虚にし人を敬う心がなくてはならぬ、
即ちこれが”敬”である。
そして人を敬う心の源は
己れを慎み清冽に身を処さねばならぬ、
即ちこれが”清”である。
更にまた己れを清に置くべきもとは
静かに思う心、喜怒哀楽を表わさぬ心、
動揺せぬ心を持たなくてはならぬ、
即ちこれが”寂”である」
というものであります。
真にもって味うべき言葉だと思います。
このように、すべて和をもって始まり、
和をもって終わるのが、この世の中なのですが、
一口に"和する"といっても人間社会では、
なかなか難しいもののようです。
孔子の言葉に
「君子は和して同ぜず、小人は同じて和さず」
というのがあります。
小人はすぐに付和雷同し、
いかにも和したようにみえても、
これは自分の利害の上に立った
自我の和でしかありません。
しかし、聖人・君子は、そうではなく和の精神を
尊んで和すべく努力はするが、
己れの信念を曲げた表面の和、
いわゆる同ずるようなことはしない、
従って「和」というのは
「同」ではないのです、
異なる意見があれば、
どしどし論じ合って結構だと思う、
ベニヤ板のように、
木目の異なる板をつぎ合せてこそ、
堅い合板が出来るように、一度和すれば
離反することがないといった意味のことで、
和の尊厳さを示したものといえます。
確かに不動の心(寂)から
生まれた身の清冽(清)さと、
己れを慎む謙虚な心から生まれた人を
敬う心(敬)が、一体にならなくては
真の和というものは絶対にできないと思いますが、
少しでもこの精神に近づくように
努力することは、誰にでも出来るのですから、
この和敬清寂の言葉の持つ真の意味を
今一度よく加味して、
この精神を日常生活の上にも
発揮するよう心掛けていきたいものと
思っております。
当道場の精神も、
その根底を「和」においてやっておりますが、
まず最初は道場の同僚同士の和、
そして帰郷されたあとは、
第一に家族の和が大切かと思います。
家にあれば自分は一家の主人だから、
家族方から自分に合わせるべきだ
などと考えず、
家族あっての自分だという謙虚な気持ちで、
自ずから家族の調和をとるよう努力するのが
本当でないかと思います。
調和とは、他から自分に合わすのでなく、
自ずから進んで他に合わすべきものであることを
忘れないでほしいものです。
児玉語録
和歌山断酒道場 前道場長
児玉正孝先生訓話集
     



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