道理を諦観せよ
- 2018/07/01
- 16:22

あきらめるといっても、
世の一般の人々が申します、
自分は不遇だ、不幸だと愚痴る
消極的な、絶望的なものではないのです。
「明らかに因果の道理を諦観せよ」
ということなのです。
昔の諺に「損して得とれ」という言葉があります。
損得とは一枚の紙の表裏のようなものであって、
得にはいつも損の裏打ちがあり、
逆に損には常に得の裏打ちがあるのです。
だから損(アル中という他の人にない重荷を
一つ背負っている)を承知して、
これに堪え忍んでゆけば裏打ちされている
得(幸福、断酒更生)が必ずくる・・・
ここまでは誰しもが考え得ることですが、
この真意には更に高い聖なるものがあるのです。
聖書に「一粒の麦が地に落ちて、死ななければ、
それはただ一粒のままである。
しかし、もし、
死んだならば豊かな実を結ぶようになる」
とあります。
この生死の次元の損得は、
次元をはるかに超えたところの
因果の道理を諦観した境地なのです。
「あなたは他の人にはない重荷を一つ背負っている」
この原因をトコトンまで究明してゆけば、
一切が欲望であることに気付くでしよう。
そこで人間でありながら
人間を脱した境地が開けてくる、
これを修行といいます。
この修行が出来るのもアル中のお陰であります。
このことが「因果の道理に諦観せよ」
ということなのです。
肉欲のこの世の中では、
損をして得をとっても大したことではないと
私は思っています。
大切なことは、失った人間性を
取り戻して真理を握むことです。
このことを自覚すれば、
そこには既にアル中もなければ利己欲もない、
そこにあるものは
損だと得だと考える主観の満足から遠く離れて、
他の人々の幸福を願いつつ共に生きる、
偉大なる平凡人の神々しいまでの
姿だけだと思います。
児玉語録
和歌山断酒道場 前道場長
児玉正孝先生訓話集
     



- テーマ:メンタルヘルス
- ジャンル:心と身体
- カテゴリ:児玉語録・和歌山断酒道場
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